いつかまた遊ぼうね。

先ほど知ったのだが、今日はみかんの日、らしい。

そして今、わたしの手元には美味しそうなみかんがある。

 

何から書こうか。

本来ならすぐさま直接送り主にお礼を伝えるべきところなのだけど、今のわたしにできる最善のことは多分、自分のことを伝えることだ。

 

わたしは最近もずっと、相変わらず調子が悪かった。

誰かに助けを求める気力もなければ、助けを求めても自分は助からないだろう、とそもそも悲観ばかりしていた。

人と会うこともめっきり減り、何かで他人と対峙する時には必要以上に心臓がうるさくなった。

 

書いたことはあったか判らないけれど、わたしは中学生の頃に病気になった。心を病んだ。

自分では弱い自分を受け入れられなかったけれど、気づいたらもう十年以上こいつと付き合っている。早めに受け入れた方が楽だったかも知れない。

精神を病むことは近頃珍しいことではないと思う。

誰しもが心に傷を負ったり、弱い部分を隠して生きていたりする。

だから特別自分がつらいとか、そういうことを言いたいんじゃない。“誰か”よりつらいとか、そういうことじゃない。

ただただつらい。生きているのが、本当に、苦痛になってしまっただけだ。

 

病気は波があって、よくなったり悪くなったりする。

ICUに入ったわたしを、ただただずっと待っていたそうちゃんは不安だっただろう。

親のことも何度も泣かせた。

認めたくなかったけれど、わたしの自殺未遂や普段のパニック発作などが原因で、アパートを追い出されたような時もある。

 

わたしの記憶は曖昧だ。

薬を常用していて、過量服薬も別に珍しくない。

他の誰かは楽しく過ごしていたかも知れない青春時代を、わたしは寝て過ごして記憶からなくしている。

それが悔しくてたまらない。

 

生きていく上でいろんな困難が待ち受けている。生きにくい。苦しいのだ。

障害者、家庭環境の複雑さ、セクシャルマイノリティ、何かしらで躓く。

 

近頃は感情が薄れてきたように思う。

何かを食べている時だけはしあわせだったが、気づいたら食べ物の味がしない日が増えた。

お風呂に入らないと とか、晩ご飯は何にする?とか、考えたくもない。

ぼうっとして、お腹が空いたら、その時食べたいものを食べる生活がしたい。あとは何もしたくない。

 

ついこの間は、本当に死のうとして、実行の途中で止められた。

でも今日は、死にたくて仕方ないけど、でも死ぬのすら面倒くさい。

苦痛で、苦しくて、でも、その苦しみを口に出してアピールするのも、ただ力を使うだけだ。必要と感じない。

 

生きるってなんだ?

なんで生きてる?

 

楽しいこと、生きがい、息抜きになること、好きなもの、夢中になれるもの、心が躍るもの、 今のわたしに欠如しているものばかりだ。

 

苦痛は書ききれないし、正確に伝えられるものでもないと思っている。

だから今ここに書くことは、ただ構って欲しいだけと捉えられるかも知れない。

でもわたしの中では必要な行為だ。

だから黙ってみていて欲しい。

 

 

今日届いたみかんは、わたしにとってただのみかんじゃない。

人との繋がりがどんどん遮断されていく中で、“わたしのために”という気持ちが形になったみかんだ。

一緒に入っていたイラストを見た時に、すごく驚いた。

自分の感情がこんなに動いたことに、驚いたのだ。

絵の中の自分が、すごく、よく笑っていた。可愛かった。

絵自体もとてもとても可愛くて、本当にそれだけで感動できるレベルだったのだけど、しあわせそうに笑う自分がそこに居て、涙が止まらなかった。

美化されてるとか、そういうのはひとまず置いといても、ちゃんと自分に見えた。

似てたし、それでも可愛いと思えたし、たとえ絵の中でも自分が笑っていてくれてるのが嬉しかった。

わたしはそうやって笑えるのか、と思った。

 

 

今は、暗闇に居るとか、靄の中に居るとか、そういうことも感じられないくらい自分の居るところが判らない。

存在しているのか、立っているのか座っているのか、何も明確にならない。

だから戻ってくる兆しがない。そもそも中学生の時に発症したのだから、“戻って”しまったらその場所は赤子の時かも知れない。

 

わたしが“大丈夫”になることがこの先あるか判らないけど、

もしその時がきたら、今のことを、今までのことを、笑えるだろうか。

 

 

わたしがどんなに感謝しても、ありがとうと伝えても、この気持ちは伝わりきることはないだろうと思う。

何もない日々の、わたしの感情を動かしてくれて、ありがとう。

 

大切な友人、出会えてよかったと心から思います。