わたしの電池を入れ替えて
いわゆるカフェに来ている。
本当は純喫茶みたいな、まあ、そういうところが好きなんだけれど、何を間違ったか賑やかな“カフェ”に入ってしまった。
作業をしようと思って来た手前、最初に案内された席はとてもじゃないけど落ち着かないということで、勇気を振り絞って別の席にしてもらった。
でもそのことにより無駄な自意識が過剰反応し、店員全てが怖く思えるという始末。
早く帰りたいけれど家では作業が捗らないのはわかりきっている。
そうちゃんに、息抜きしながらね、と言われたけれどその方法がわからなかった。
とりあえず、無料のwi-fiが飛んでいるようだったので接続し、これを書くに至った。
連休が終わってしまって、想像していた通り、落ち込みに落ち込んでいるわけだけど
きっと物事はいい方向に転がっているのだと信じて、生きるしかないようで
そういえば、少し長い散歩に出かけた時、
ちょっとすてきな喫茶店に入った。
プリンを食べたよ。美味しかった。
長居はしなかったけど、落ち着く空間だったなあ。
さて、結構本当にしんどくなってきてしまったけれど、
帰るにはまだ早いかな。
まだ13時。家に帰ってもひとりぼっち、落ち込むだけだ。
でも、どうだろう。
ここに居ても落ち着かないし、なんならそわそわする。
無理やりここで作業する必要もないかなあとも思える。
隣にも人が来てしまったし、絵を描くには環境が悪い。
もう帰ろう。今決めた。
残ったアイスティーを一気に飲んで、もう、帰ろう。
雨の空が君の心模様なら
いわゆる改元というものがあったわけだけれど、みなさまいかがお過ごしですか?
わたしは、平成だからとか令和だからとか、そんなの関係なく毎日が日常のままなことが不安で、このGWが終わってしまったらどうなるのかなあ、とぼんやり物思いに耽るだけの毎日です。
最近は雨が多いね。
わたしは、行きの道の雨はきらいで
帰りの道の雨は結構すき。
傘がたとえなくても、濡れてしまっても、あとは帰るだけなら雨もきれいだなあと思える。
ただ傘をさすのが苦手、というのもあるのだけれど。
傘って、さしても濡れるし、風が吹くと壊れそうで気になるし、なんならさしてないだけで変人を見るような目で見られているような気がして、気になって。
昨夜の雨は、霧のようにとても細かい雨で、あたっていても気持ちいいくらいだったし、街灯に照らされて光る雨がすごくきれいだったなあ。
さて、GWは姉が帰省しているから、そうちゃんと二人で過ごしているんだけども。
姉が帰省する前に母と通話していたら、姉の食べるパンがないなあ、と嘆いていたので、母にも食べて欲しかったし前日にパンを焼いたの。
母にはくるみパンを、姉には普通のを、ごまパンもあったら嬉しいよなあ、とか考えていたら一日に三斤も焼いてしまっていて。
過発酵だったり膨らまなかったり、パンもなかなか難しいのだけれど、この日はうまく焼けたなあ。
そして、わたしは卵とかも食べれるので(本当のほんとうは、ダメなんだけどね)、フレンチトーストを焼いたりして。
前日に仕込んだり、楽しかったしとっても美味しかった。
今は、そうちゃんが唐揚げを揚げてくれていて、わたしはぼうっとしていていい時間。
でも一人が苦手で、でもでも疲れてて、何をしようって思った時にブログがちょうどいいなって思ったわけです。
そうそう、そういえば先日のブログで髪の毛の色を変えようかな、なんて書いていたと思うけれど、実際に脱色して好きな色を入れました。
インナーカラーにピンクを。
ちょっと表面の色が茶色すぎるので、もう少しアッシュにしようかな、とは思っているよ。
気温が安定しないけど、みなさん体には気をつけてね。
花は決まって頭を垂れる。
枯れかかった花が皮肉にもきれいで、シャッターを押してしまった。
花はどう思っているだろう。
去り際の姿、きれいに見えてしまうことってきっと稀ではないはず。花に限らずね。
何もできない日を肯定してくれる人が割と周りに多い。
わたしはそれを素直に受け止められない。
だって、何もできなかったのに!と、思ってしまうのだけれど。
やさしい人間が周りに多いと、自分を甘やかしてしまいそうで、それもまたしんどい。
ただ、厳しい人間はもっと苦手だから、図星なことを言われてしまうと、結構キツい。
わがまま、なんだな。
わたしは自分のわがままな部分に気付いてはいるけれど、素直さに欠ける。
けれど、最近「ごめんなさい」がちゃんとできるようになってきた。
子どもか、と思うかも知れないけれど、謝罪や感謝をなんの恥もなしに言えるまでには相当要した。
一般的に、友人などには謝罪、感謝はするっと言えるのだけど、
そうちゃんなんかになると言いづらかったりする。
でも、近頃は「さっきはごめんなさい、」ときちんと謝れるようになった気がするのだ。
これは成長だと思う。
はてさて、そんな何もできない日が続いても、
パンを2斤も焼いてしまったり、久しぶりにネイルをしたりなんかできる時もある。
これはさつまいもパン。
ごまパン以来の初めてのアレンジパンな訳だけれど、案外美味しい。
ネイルは、チューリップにしてみた。
写真では少し色が飛んでしまっているけれど、利き手に描いた方のチューリップも我ながら頑張った!と思う出来で、満足している。
わたしは濃いピンク色が好きだなあ。
さて、そうちゃんに“眠れるツボ”を押されまくっ たわけだけど、
痛みで目が覚めてしまった気もする。
明日は一応用事もあるし、そうちゃんもまだ起きてくれている。
大人しく布団にくるまって、明日に供えようかなあ。
そして、近々、髪の毛の色を抜いて明るくしようかなあ。なんて思っている夜中。
眠るときのそれでなく、夢の話をしよう。
高校のころ、服飾を学んで、以前から好きだった裁縫を覚えた。
高校をなんとか卒業した数年後、大好きだった写真を学ぶために専門学校へ通った。中退した。
ずっと絵を描くことやデザインをすること、文章を書くことは大好きだった。
そして、昔から、お人形さんが好きだった。
わたしは全てのことを全部、楽しんでやれる状況を思いついた。
わたし、ドールのお洋服作家になります。
多分、公言しないとやらないかもしれない、という気持ちもあるのかも知れない。
でも、絶対にやってみせるという強い気持ちもある。
まずは、ドールを手に入れる。
設定もしっかり考えてあるし、もちろん名前も。
だからちゃんと自分好みの子をお迎えする。
そしてお洋服を作る。
ここは母親の力も借りたい、母が早く上京してきますように。
(この話は長くなるので、今はしない。でも、母の上京をいつだって待ってる。)
デザイン、イラスト、裁縫の欲を満たして、
今度はドールにそのお洋服を着せて、写真を撮る。
いい写真を撮って、そのお洋服にすてきな名前をつけてあげる。
あとはまだヒミツにしておきたいことでもあるから、
今は言えないけれど、
いつかそうやって、お人形さんのお洋服を作ってあげる人になる。
それが最近の夢。
だから、早くお金を貯めて、わたしのパートナーになる子をお迎えしに行かなくちゃ。
応援、してくれますか?
歌うように、タイピング。
ありがたいことに(とてつもない皮肉)、今年は花粉の飛散がものすごく、例に漏れずわたしの鼻も悲惨だった。
だった、とは書いたけど、実のところまだ花粉症継続中で、絶賛鼻炎マンなわけである。
毎年花粉症になるわけではないのだけど、数年に一度、ものすごいヤツにやられる。
今年がそれだったんだけど、ほんと、ほんっとひどかったもんで、ちょっとこれからは毎年飛散が始まる前から対策考えた方がいいのかな、とまで思っていたり。
とまあ話は変わるのだけど、
今日は朝からご機嫌で(自分で言うのもなんだけど)、ハートキャッチプリキュアのEDを歌って踊ってたな。バス停で。
だけど午後にはその元気も息絶えて、いつものダウナーなわたしになってしまった。
なんとか元気にしたかったけれど、無理してると余計疲れてしまってだめね。
お気に入りのスニーカーを履いて出かけたけれど歩くのも疲れてしまって、
カワイイの限界を知った。
我慢せず暴飲暴食しよう!と決めた日に限って、
なんだか結構早い段階でおなかがいっぱいになってしまったりして、それもまた悲しかった。
日々、悲しい出来事は起こるのだけど
それに対処していく力が欲しいなと思う今日この頃。
今日のニュースはこたえてしまって、仮眠をとった時も夢に見たりしたものだから、夜の睡眠にも影響が出そうで心配でもある。
ゴールデンウィーク、皆さんは何をして過ごすの?
わたしはそれまで生きていられたら、ゴールデンウィーク後の生きる術を考えて過ごすかなあ。
隣のバラが微笑んでるように見えて、
いいこと、めでたいこと、がんばったこと、
そういう色々は桃色のペンでノートに書き記す。
わたしの今日のノートにはピンクが咲き誇っていて、わたしの鼻は高々だ。
朝起きてからわたしは、
洗濯をしたり、
食器を洗ったり、
こたつ布団を外して洗ったり、
歯医者さんに行ったり、
晩ご飯の買い出しをしたり、
パンを作ったり、、、
桃色のペンが減ることを随分とした。
わたしは自分にご褒美、とおもって
モンブランプリンを買った。
79円くらいのそのご褒美(ちゃんとクリームが多いのを吟味して買ったから満足感があった)を、そうちゃんに自慢しようとしたのだけど。
「ご褒美買っちゃった〜」
「何買ったん?」
「モンブランプリン(絵文字)」
「ロリ服とかかなって思ったらめっちゃささやか!笑」
ロリ服を買う発想はどこから?と笑ってしまった。
ものすごく金欠だというのに。
でもそのささやかなご褒美、わたし的にすごく満足だからいいの。
お昼寝をする時、あまりに暑くて
扇風機を引っ張り出したんだけど、
「弱」で入れた風が心地よくて、とても清々しい気持ちになった。
生きやすい日も、あるんだなあ。
今に違和感を覚えながらの毎日。
今日はそうちゃんが休みをもぎ取ってくれた例の日であって、
わたしは朝からいい気分になれるもんだとばかり思っていた。
だけど、実際には朝から気持ちはずんっと暗くて
わたしの不安定さを露呈させる結果となった。
調子がよかったら夢の国にでも行って、なんて思っていたけれど
わたしたちが向かったのはそれとは正反対の、いわゆる病院だった。
そして、わたしは緊急外来で診てもらい
初見の先生の前でめそめそと泣き崩れるという面映ゆい結果となったわけで。
そのあと、そうちゃんと一緒にお出かけして美味しいロールケーキを食べたんだけどね、
楽しい時間を過ごすと、心臓がもぞっとするようになってしまった。
今はおうちに居るけれど、
わたしが相当しんどくなってしまった際には緊急入院が待っている、ということを知ってしまって、のちにわたしはいろんな映画のシーンに思いを馳せ ることになる。
というのも、今までなんとなしに観てきたシーンが、感慨深いものになったのだ。
例えば。
入院、または更生施設に入った人間が脱走してきたり。
入院の合間に、休暇のように、家族と触れ合える時間をもらった主人公だったり。
そういう人の気持ちというのは、なんとなく「ああよかったねえ」だとか「脱走しちゃって大丈夫かなあ」とか、ふんわりと観ていたのだけど。
もしかしたら。
その入院生活と、家族と触れ合っている、いわゆる楽しい時間というものにギャップが生まれ、苦しいのではないかとか。
なんだろう、うまくは言えないのだけれど、入院生活(わたしの場合は入院を突きつけられただけだけど)と楽しい時間、どちらも非現実的に思えて、どちらにも足がつかない宙ぶらりんな気持ち、にはならないのだろうかと。
家族と会えて、逃げて来れて、幸せな気持ちと、
さっきまでの入院生活は本当に自分の現実で起こったことなのか?という疑問と、
逆に、この今あるしあわせが本当に自分のものなのか?という疑念と。
なんだか、足がつかない気持ちに、わたしはなった。
ぷらんぷらん浮いていて、わたしはどこの現実にも属さない、存在しない人間にでもなったかのような。
とまあ、いろんなことを考えたわけです。
映画の主人公に感情移入することは結構あるけれど、
自分が体験しないと測り得ない気持ちというものもやっぱり大いにあるのだな、と痛感した日でした。
(母には、本当にきつくなったら入院して、最悪な自体は避けることを約束してね、と言われたので、わたしはGWまでとりあえず頑張りきらないといけない)
本当は今、入院して隔離されていてもおかしくない状況なのだろうけど、
寛大に見守ってくれる周りのひとに感謝して。
さあ、今日もパンが焼けたよ。
今日はゴマのパンなんだあ。